日本の歴史がこっそり教える経営やビジネスのヒントとは?

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改めて日本史を勉強してみたら、教科書に書いていない、色々なヒントが見えてきました。

豪族も天皇に血を入れることができる「朝廷」という名のプラットフォーム

江戸幕府の第3代将軍は、家光の弟が継ぐものとされていたなか、家康が年上の者が継ぐべきだろうという考えを示したものでした。これは、戦国時代のように実力のある者が継ぐということでは、様々な藩で家督争いが起こるだろうということへの配慮でした。

古代日本は、地方豪族の集まりの連邦国家でして、いつしか、天皇という仕組みができるわけですが、この「君臨すれども統治せず」の役割をこの血族にもたせ、地方豪族たちも血縁を持つことで、行政への参加ができる仕組みでした。

豪族だったら誰でも参加できるプラットフォームが大和朝廷といえます。
自分の国を「お上」に譲ることで、都に住んで、連邦会議に参加できますから、参加者は合理的に天皇制を支持することになります。

そして、混乱をさけるために、天皇の代替わりの合理的なやり方が、血の順序だったわけです。
豪族も血族レースに参加できる極めてオープンなプラットフォームだったといえます。

しかも、一度、都に住めば、田舎には戻りたくないという心境を生みます。
現代でも、上京したまま田舎に戻らない元田舎者はたくさん東京に住んでいます。

国を下っ端に任せてでも、住みたいと思わせる魔力が「京」にあったということは、日本の歴史を学ぶ上で重要なポイントかと思います。

為政者の考えのベースにあるのは「民は国の御宝」

戦後の日本国憲法が発布される前から、基本的人権の尊重の概念はありました。
聖徳太子による十七条の憲法にも、国民を大切にすることが書かれています。

西洋の戦争では、搾取や奴隷が当たり前ですが、日本では「民」は資産として扱われています。
それは、「すべての人の中に神がいる」という神道の考え方がベースにあるとは考えられますが、これを合理的に行ったのが日本の為政者でした。

島原の乱では、武装したキリスト教民を皆殺しにしましたが、幕府はこれを反省して、島原の農業の立て直しをはかり、その後はキリシタンの信仰を黙認したといいます。これも「民あっての国」という考えがあったからこそです。

日本の為政者で唯一、この考え方に従わなかったのは織田信長です。
一向一揆の虐殺、比叡山の焼き討ち、武田狩りなど、数万人規模の虐殺を何回も行っています。
今までアンタッチャブルな寺社勢力にもその手が及ぶものですから、公家も恐れていたに違いありません。

いいタイミングに死んだというのが歴史の面白いところです。

古代人は私たちが思うほどスピリチュアルでは無かった

「聖武天皇は、鎮護国家を作るために、東大寺の大仏を作りました。」ってサラリといいますが、現代人だったら、そんなものに血税を払うなよと思うかもしれません。

でも、東大寺建設はオリンピックスタジアム建設のようなものだよといえば、すんなり納得するかと思います。

公家連中にしても民衆にしても、その中に、その道のプロも混じっていますから、スピリチュアルのリアリティを知っています。宗教は「心のあり方」を整えることはできても、現実を変えることはできないことはわかっています。

天皇家は、身内で呪詛しあったりしてますが、やはりやるときは、刀で斬り殺したり、戦争をしてきていました。

宗教やスピリチュアルにハマる人は、すべからく、利己的で、自分の内面を見つめるだけ、ただ拝むだけで何もしません。
そんなことを、為政者もやっていたら、政治はできません。

ただ、地震や飢饉が起こった時に、「お上のせいだ」という噂を流したくなるのが民衆の心ってものです。
だから、パフォーマンスとして、太宰府天満宮を作ったり、鹿島神宮で将門封じをやったりして、民衆の心に答えているわけです。

東大寺も所詮そのようなものです。
ただし、全国に国分寺を配置して、その総本山が東大寺なわけですから、政治の道具としては中々に合理的です。

寺社勢力は朝廷時代の地方豪族の及ばない新しい秩序の担い手です。
荘園や僧兵を持ち、天皇ともつながりを持つ、そんな勢力が地方に散らばっているわけです。
国司・郡司に対して、国分寺、なかなかに面白い構造を作ったものです。

その後、道教が出てきて、いよいよ仏教勢力が新秩序を作るのかと思いきや、桓武天皇によって排除されます。

そして、桓武天皇が作って全国に散らばらせたのが公家武士、桓武平氏というわけです。

トップは象徴であるべし。権威と権力の使い分け経営術。

天皇は意見や感想はいうけど、直接指示はしない。
権威に徹することで、権力を動かす人たちは政争を繰り返すけど、自身は身の安泰を計りました。
これが大和朝廷や、律令時代の基本的なシステムです。

この構図は、武士の世界でも同様でして、殿様は、家来たちの合議に従うという方法がとられたようでした。
日本が連邦国家であるように、諸国もまた豪族たちによる連邦ですから、このような形が合理的だったのでしょう。

大名たちは、朝廷の権威も借りて、官位ももらい、それを統治する証明書がわりに使いました。
日本のリーダー像というのは、お上から任命をうけた上で、実行は部下の合議をまとめるにふさわしい言動をする人ということなのでしょう。

このような権威と権力の使い分けは、武士の時代になっても、鎌倉時代の執権北条氏のように応用されました。
これは、平清盛が天皇家に近いあまりに排除されたことを学んだからでしょう。

権威と権力の使い分けができなくて失敗した例は、後醍醐天皇でした。
鎌倉幕府を倒す号令をしたまでは、世論を掴んでおり功を奏したわけですが、親政を図ろうとしたのが失敗で、公家にも武士にも受け入れられなかったというわけでした。

日本は世界戦争に負けたが有色人種の国々は勝った。

大航海時代の植民地政策は450年続きました。それまで略奪や奴隷、不平等な貿易など、やられっぱなしだった各国はなぜ独立できたのでしょうか?

日本は「民あってこその国」という信条がありますから、原爆を落とされたときに、その決断の時はやってきました。

このタイミングは実に絶妙で、この頃からインドネシアやフィリピンの独立運動と重なります。
そして、あれよあれよといううちに、東南アジア、インド、アフリカが独立していきます。

一方で、アメリカは、日本に占領したのは5年ほどで、朝鮮へ出兵しては戦果をあげられず、ベトナムでも負けました。

大航海時代の列強は、船を数隻派遣して、鉄砲をふりかざせば、略奪し放題でした。
これにくらべて、大東亜戦争以降のアメリカって、戦争で何を手に入れたのでしょうか?

かえって、各国の独立を促しただけでした。

今まで、一度も海外の勢力に屈しなかった日本が敗戦したという事実、そのものが、各国を鼓舞したのではないでしょうか?

普通なら、400年続くものは500年続くものです。それが日本の敗戦時期の10-20年くらいに独立運動が集中するのは「神風」としか言いようがありません。

人々の集合意識が変われば、世の中は変わります。
指導者の指導者たる所以は、人々の意識をうまく変える点といえましょう。

そして、各国の指導者はまさに、日本のあり様を意識していたのです。

西洋はゼロサムゲーム、日本は将棋ゲーム

秀吉の家臣団の中に浅井家家臣がいたり、徳川の家臣団の中に武田家家臣がいるように、日本人は敵国であっても人材登用をします。

明治政府では、徳川慶喜が貴族院にいたり、幕府軍の榎本武揚が大臣になったりしています。

「民は国の御宝」という考えは、敵国の家臣にもいえることで、人材を有限の資産として考えるのが日本人の癖のようです。

それに対し、西洋の戦争のあり方は敵国に奴らは皆殺し、財産没収当たり前の世界です。
極端な虐殺は、妬まれる可能性をゼロにしようという不安の裏返しです。

競合が出ようものなら、その目を摘むべく、買収するか、殲滅させるかという考え方です。
これに対して、日本では、競合もウェルカムで、市場そのものを大きくしようという考え方があります。

徳川家は、なぜ、自分に牙を向けたことのある、島津や毛利、黒田、上杉や伊達といった競合を残したのか?

それは、あえて競合を残すことで、身内を律することもあっただろうし、異端児を置いておくことで新しい風を吹かし、日本自体の民度や国力を強くすることを念頭に入れていたのではないかと思います。

事実、列強各国といえば、内乱を起こさせて、傀儡政権を作るという形で植民地支配をしていましたが、日本は戦国時代や幕末時代のように内乱が起こっている時に攻められたことがありません。

すぐに無血開城をしたり、余計な犠牲を払わないで、新しい秩序を作ったりします。
こんな感じですから、列強にとって、武器も売れず、宗教を支配にうまく使いこなせない、こまった相手が日本でした。

 

古事記から読み解く 経営の真髄とは?

こちらの動画が面白かったのでシェアしておきます。

古事記の伝説は、その裏のメッセージを読み解くと、国づくりや企業経営のヒントが出てきます。

また日本史は、古事記を読んでから調べると味わい深いものになります。

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